昭和44年02月05日 朝の御理解



 御理解 第28節
 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」

 井戸は清水になるまでと、井戸は清水になるまでと、そこから尽きぬ清水が清らかな水が懇々と湧いて出る様に頂けます。そこまでひとつ一生懸命ね、そこまでを一心にまめで元気な心で信心せよと。中々信心を熱心に頂かせてもらいましても、やはり濁った水ばっかだけではない、井戸替えをする時に様々なまぁ石やら、瓦のようなものも出て来る様に、そういう様なものが出てくる時には、やはりま大変な修行ですけれども。信心をさせて頂くようにならしてもろうて。
 そういういよいよ清水になる迄の、過程とでも申しますかね、様々なまぁ泥水的な物が出てくる時に、確かに井戸が清水になる迄の、それをおかげとして頂ける信心を頂いておかなければばならん。井戸替えをすると同じこと、初めからどんどん清水が出るようであったら、井戸替えやらもうする必要もないのである、やはり真から根からのやはり井戸替えが必要がある。ですからそういうものが出て来るおかげを頂かしてもらう。楽しみとか喜びというものが分からなければいけない。
 昨日土居の久富さんの奥さんが、昨日の御理解を頂きながら、頂いておられることが、北国に住んでおるという事だった。北国に住んでおる。昨日御理解からを頂かしてもろうてですね、確かに北国といゃ寒いところ、もう本当にじっとしておるなら凍え死ぬ様にいわば寒い所、けれどもそのうどんなに寒い時であっても、寒い所であっても、一生懸命に何をかをさしてもらってるという、まぁいうなら塩気のない田畑の仕事をさして頂いておるとのを、それこそ着ておった着物は脱いででもよいように。
 真からポカポカ温もって来る。こりゃあながち北国だから寒いという事はない。北国でもこんなにそのう暖かに過ごせると事が出来るという事をです。いうならば勤労の喜びとでも申しましょうか、私は信心の喜びというものは、そういうもんだと思うね。一生懸命に努めれば努める程、まぁ汚いものがどんどん出て来る。それを今お取り払いを頂いておる有り難しと、いうような心で受けられるということはです、私はポカポカ暖かまる、心から暖まる様な状態の時でなからまければですね。私は頂けんとこう思います。
 井戸は清水になる迄と、だから私は井戸は清水になるまでという事は、どういうことだろうかとこう思うんですけれどもね、また信心には素直さが一番とこう言われておりますけれども、本当の素直さというのは清水にならなければ、素直には見たり聞いたり出来んのじゃないかと思うんです。素直というのはね、本当に心が清水にならなければ、事の事態を素直に見たり素直に聞いたりする事は出来ない。ですからどうでも井戸清水になるまでのおかげを、頂かしてもらわなければなりませんが。
 そこでなんですけれども、井戸は清水になるまで井戸は清水になるまでと、あのうその何かその事が目指して、一生懸命信心しておるということは、何か非常にきつい感じが致しますよね。いつになったら清水になるだろうかという、いつになったら懇々と湧いて来る様な、清水が頂けれるようになるだろうかと、それこそ働けど働けどであって、いつになったら我が暮らしが楽になるだろうかと、そういいなりに一生を終わってしまうんじゃなかろうかと、いうような不安すらがこう出て来るんじゃないかと。
 私は素直に見、素直に聞けるということ、もう四、五年も四、五年とも言わんでしょうかね、まだ椛目時代、渡辺先生が福岡の絵を描いてこられた、あのう釜倉の中に福寿草が二本こう咲いておる、釜倉というのはあのう北国ですよね、それでなんかあのう雪を家のようにしてそれを釜倉というのです。その中に福寿草が二つ、でこれに何んかさんを書けという訳なんです私に。それで私はそれに何ち書こうかと思って、あのうちょうど私が学院に行かなければならない。
 しゃちもっち私を学院にやろうと言う、働きのある時分でした。ですからもう信者さん方も、やる行ってもらわんならん人と、とにかくやられないと言う人で、もうそのうその事でいつも会議しておるような時代でした。本当に私はもうそれに「その事は妻に託して屠蘇の座に」と言う旬を書きました。その事は妻に託して、家内にそのことを頼んで、いわゆる正月の屠蘇の座についたと。こう言う訳なんです。ですからこれを本当の事いうと、妻ではない家内ではなくてですね。
 その事はもう神様に託して、神様に任せて右がよいの、左がよいのではなくて、いわゆる屠蘇の座につけるという事。もちろん屠蘇の座といゃお正月の事でしょうけれどもね、私共日々が元旦の思いで過ごさせてもらうのですから、毎日毎日が屠蘇の座につくような、もうその事は例えばどういう難儀があっても、どういう困った問題があつても、もういよいよその為に話し合いもする、その為にさぁ右がよいの、左がよいのと考えても見る、けれども結局はね、もう神様にお任せするより他にない。
 そこに私は屠蘇の座につけれる、心境というかねまぁいろいろと、まぁ結局は神様任せ、神様のお働きに、素直に従順に従うていく以外にゃないのだと、私はそういう日々で、そういう毎日が過ごせるおかげを頂きたいとこう思う。例えそれが、もうお父さん明日の食べるものはないですよと、まぁ家内から言われてもです、しかし今日まで食べさせて頂いてきたじゃないか、しかも家族の者が。この夕この夕食までは、頂かせてもろう事が出来たじゃないかね。
 振り返ってみるとずうっと前一遍でも、食べんと言う事はないじゃないか、やはり今まで頂いてきたんだからね、もうその事は神様にお任せして、そしてさぁさぁもう今夜は早う休もうじゃないかと、さぁ明日食べるもんがない事を考えて眠られんと言うのじゃなくてです、そういうひっ迫した難儀な中にあっても、さぁさぁもう休ませてもらおう、明日は明日の事であるとしていけれる信心。そこに私は恵まれ続けれる道が開けて来ると思うのです。それなりに恵まれ続けれる日々。
 さぁ明日の事考えたら眠られんね、というようなものではなくてですね、いわゆる井戸は清水になるまでのその過程、あくたとか泥水などがどんどん出る中にあってもです、例えば北国に住んでおるような事であっても、心は体はポカポカっと暖まっておるというような、私おかげを頂いておらないとです、それをそのようなふうにゃ受けられないとこう思うのです。そげな呑気な事ばかりいうてから、どうしますかというのじゃなくてですね、家内も又それもそうですねとこう言えれる信心ね。
 今まで何十年間そのようにして恵まれて来たじゃないか、今日も今日とて朝も頂いた。昼も頂いた。夜も只今頂いたじゃないか、只明日とがないからというて、心配する事がいろうか、明日は明日で神様が明日の風が吹いてくるのだ。その事はもう妻に託して、もう神様に託して神様にお任せして、そして明日のいわゆる元旦のいわゆる、屠蘇の座につかせて頂けるようなそういう日々。平常心ということを申しますが、私平常心とはそういう心だと思います。
 ですからですね例えば、こりゃ私の事を申しますと、もう毎日毎日がこうして同んなじこと同んなじことをこうやっての繰り返す。朝の三時に起きて、そしてまぁ三時十分後にはもうこの控えにやって来ておる。毎日毎日同じ事を繰り返しをしておるのにもかかわらず、もうそれが何と言うかね有り難いと言うか、いわばやはり平常心です。もう平常心でおりいつも同んなじでおれれるという事が有り難い。別に刺激を求めるようという心もない。たまには楽をしなきゃというあれもない。いっつも同んなじ。
 そういう心が私は新な心だと思うのです。はぁいつになったらおかげ頂けるのじゃろうかというのでなくてです、信心の一番大事な所。一番有り難い大事なおかげというのはそういうおかげである。それはなら私が申しまように、さぁ明日はもう食べるものが無いですよと、いう様な場合でもそれでおれれるという事、そして今日まで恵まれ続けてきたことに対するお礼の心が強いです。明日の事はもう神様に託してあるお任せしてある。繰り返し繰り返し毎日を同んなじ様な事を、同じ事を。
 同んなじような様な様子で。毎日を過ごさせてもらう。その事の中に私は、あわゆる井戸は清水になっていくところの喜びというものを感じさせて貰う。そこから私はものが素直に見れる様になり、素直に聞ける様になり。あぁしなければならない、こうしなければならない、という様なものではなくてですね。その清水になるという事はそういう様な、私はおかげを頂く事だと思う。もういよいよ清水になってきよるという事を、心の中に信じ切らして貰うというかね、毎日の個人さんの朝参りでもそうです。
 これが何時まで参らねばならんだろうかという時にゃしるしい。けれどもそれがです私共生きていく上のいわゆる生活の一部としてです、朝参りが出来る。きばる事もいらん、只それが淡々として毎日毎日同んなし事が出来る。毎日毎日同んなし事が、同んなじような事柄が起きて来る。その事柄を素直に見素直に見聞きしていくところにです、神様に託していけれる、その事はもう任せきっておれるそういう生活。そういう生活をそういう信心を目指して頂くという事が、私は井戸が清水になる迄だと思う訳です。
 二十八節の前の所に二十七節最後の所に何程人に悪い事せぬ正直者でも、人が善いのと、神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞとこう、信心しておかげを頂いていくという事は、あのう人が善いとか悪いとかいう事とは関り合いがない。信心していくとおかげが受けられるという、そういうおかげを頂きながら私共が正直者を目指して、信心をさせて貰うという事は、病気災難は根の切れるまで井戸は清水になるまで、自分の心が一心鏡の如しという一心鏡ねそういう心を目指して信心させて頂くと言う事。
 そこん所が相まっていかなければ、私はいつ迄経っても井戸は清水になるまで、いわば何時迄お参りせなならんだろうか、と言う心が必ずついてくる。その事がもう当たり前当然の事として、例えば朝参りなら朝参りが出来る様になる。それは毎日毎日同んなじような事を繰り返しておるけれども、それが例えば私のばあいはそのう、まぁ奉仕の事から思いますとです、同んなし事なだのにそれが有り難い。そこからどの様な事があっても、どんなに例えばなら強い風が吹いてきてもです。
 素直にそれこそ柳が風に逆らわない様な心でおれれる心。どんなに暑い日でも寒い日でも、暑い時にはそこに涼を感じさせて貰う様な、寒い時にはそこに心の底からポカポカと暖まる様な、暖を感じさせて頂きながらね、そこに信心の修行の有り難さというものが、身について参りますしてですね、いよいよ井戸は清水になるまで、いや病気災難は根の切れるまで、切れるまでのおかげを頂いていくという事が有り難い。そこから日々展開して来る所の様々な事柄も問題も、それを素直に聞かして頂ける心が頂けてる。
 そういう心を私は新な心だと思う。一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよと。自分の心が健全であるということ、そこに心が健全であることによってです、素直に見るまめで繁盛するよう、一心でまめで自分の心がいわゆるまめで、自分の心が健全であるという事。そこに心が健全であることによってです、素直にいう事が出来るし素直に聞くことが出来る。健全でないまめでないところに、それを不安、心配、なら焦躁といった様なことで、それを感じ受けていかなきゃならん。
 それではなく健全な心で、ならまめな心まめで繁盛するようという事は、心が健全な心で繁盛するよう、元気な心でねお願いせよと仰っておられる、その元気な心で信心せよとおっしゃる。その元気な心で信心せよという事は、これはもう元気まぎ出しとるといった様なものでなくてです、日に日に同んなじ様な事がある中に、有り難さを感じる。生き生きしたものを感じる、いわゆる新な心である。それで私今日は、清水になるまでというのは、そういうような私はおかげを頂く事だというふうに思います。
 同時にそういう心のまたは家のせい井戸替えするに、清水になるまでと仰る清水になって行ききょるその状態というか、そこからいわば汲めども尽きぬ清らかな水が頂けるという事が、そこから湧いてくる心が素直な心である。その素直な心で物を見物を感じる。本当の物が見れるようになる。本当な事が感じれるようになる。そこにさかほんなら明日はもう食べるものがない、というてもじゃ明日の事は、明日の事としてですね、そこに神様に託せれれる私は素直な心が頂けれる。
 その事が段々おかげを頂いて参りましてです、いわゆる恵まれ続ける所にね、まぁ言うならば私が修行の時代の只今申します生活の中にあった事なんですけれども、さあ明日は炊く米がないですよという中から、今日いうならば米俵積まして頂くおかげを頂いておる、今日もやっぱり同んなじである。だからその恵まれ続けるという事は、恵まれ続けてそれがいわばこの繁盛するよとい事。繁盛に繋がってらおらなければならない。そういうてなら繁盛致します様に繁盛致します様にというて願った訳じゃないけれども。
 そう元気な心で信心せよと仰るところがです、日に日に同んなじ様な事柄の繰り返しではあるけれども、その事の中に産む事も飽く事もなく、むしろその事の中に有り難いものを感じさせて貰う信心が身についてきた。これがはぁ何年何十年続くか分からないけれども、この気持ちはいよいよ恵まれ続ける事恵まれ続けれる、おかげの頂けれる心がです、いよいよ豊かに大きくなっていくのであろうと私は思う。とにかく私は平凡なと本当に平凡なという事はね。
 もう平凡であると言う所に平凡な生活に飽き足りないという事がなって来る。ところが、私が言う平凡な日々の中にはです、もう平凡ではないそれは非凡なのだ、同んなじ事柄は同んなじ様であってもです、繰り返しておる事は同んなじ時間に同んなじ事しておってあってもです。それが平凡のようであっても、その中に有り難いものがです、段々育っていくとするならこれは非凡なのです。ですからどうあったら良かろう、こうあったらという事もない心で、日々を素直に見て聞いて行じていけれるのです。
 毎日のお日参りがですね、それが当たり前の事としてまぁ平凡に出来ていく、しかもその平凡に朝参りが出来ておると言う事が、段々有り難さを増して来るという信心、そこには例えば信心がマンネリ化する事もない。同んなじようであっても新しい喜びというものがいつも伴うておる。そういう信心を私は元気な心で信心せよと、仰るのじゃなかろうかとこう思うのです。寒修行中だけなら頑張るぞという時代からですね、その寒修行中に頂いた事、分からせて頂いた事。
 この様に有り難いものであるかという事がです、身についてそれがこうやって続けられる。昨日私、まぁお話しない積りだったのですけれども、まぁ自然こう話す様わけですけれどもね、私の寒修行は昨日から。これはね皆さんが一生懸命に寒修行でもさせて頂こうという時に、頑張っていられる時にはね私は実に楽なんです。皆んなが一生懸命ですから私は一生懸命ならんでもおかげ頂くんです皆さん。ところが皆んなが寒修行でもなら済んでやれやれというな時。
 今朝なんか私しゃある方の事をお願いしよったら、金仙花がこう二本しおれてしまっておる所頂いた。はぁこの人はもう金銭の事であのうで難儀しておるなと、思わせて頂いてお願いさせて頂いたら、その御祈念が終わる頃にゃ、そのしぼんでおった金仙花がすうと水を上げてですね、生き生きして来るところを頂くんですよ。寒修行が済んだらピシャっと辞めてしもうた、そしたらもうその金仙花がしぼれてきよる。一生懸命の時にゃそれが生き生きとし続けておったはずなんです。
 それでその方を私がまぁ受けてそれを願わしてまぁ頂いた訳ですけれども、不思議ですよねもう本当に神様はあって有り難いですよ。もうとにかく例えばなら、私は昨日から寒修行だと、寒修行に私があたくしが入るとねお広前全体が、寒修行の雰囲気が出てくるから不思議です。今度の寒修行はなんとなしに盛り上がりがなかったと、いった様な感じだったでしょう。それはそうでしょうね、去年から寒修行の続いておる人が殆どなのですから、もう今日いうならも淡々として当たり前の事として。
 なされてといった様な感じの毎朝でございましたでしょう。今朝でもそうですけれども、寒修行中よりも参拝は多いでしょう。お広前一杯にこうやって皆さんがお参りして来てるね。例えば昨日でも私は思うたです。福岡から歩いてお参りして来た人があるんです。昨日の朝。私が寒修行に入らせて頂いたら、もうそこにですね本当にあのう修行、寒修行そういう修行でもさせて頂こうと言う人が出来てくるという事です。もう本当に打てば響く様な感じが致します。
 一昨日も寒修行のおととい明けでしたけども、いつもよりも御参拝が多かったし、日々のお届けもやっぱり多いです。ですからこれはもう私達の寒修行。だからこれは誰に言わんでよいけれど、まぁ私の気持ちがさぁ今日から私達の寒修行ぞという気にならせて頂いたら、そちらの方へ響く響き具合も変わって来るんです。自由自在に自分の心の上にですね、そういう生き生きとしたものが、まぁ頂けておられるという事もです、私は元気な心で信心せよと仰るが。
 その元気な心というのはその新な心で信心が段々出来てくる様になったからだとこう思うのですよ。どうぞひとつ水が清水になったら、やめようといった様なうなけちな心を出さずにですね、本気で清水になる迄信心辛抱させて頂いてね、その清水になる何と言うですかね、こりゃもう清水になっていきよるという楽しみというか喜びというか、その喜びというものがずうぅっとこう、繰り返し繰り返し続けて頂けれるような信心。それがもう生活の中に生き生きと、そのう朝参りなら朝参りがなされていく信心。
 そこから私は事柄を素直に見たり、素直に聞いたり出来れると言う事、の有り難さと言うものをひとつ身に付けていかなきゃなりません。まめで繁盛するよう元気な心で信心させて頂く。元気な心で信心せよとね。それは初めの間はそれを本当に、まぁ元気まきだしたいう心ですけれども、その元気な心そういうものではなくて、それがもう当たり前の事として出来れる心ね。そういう心でなければ実際の事をですね、神様に託し任せれるという事にはなってこないと思う。
 そういう心が生まれて来なければ、神様にお任せして屠蘇の座につく事は出来ない。今日もやはり元旦の心で、屠蘇の座に着かせて頂くような心で、おかげを頂けれる日々を頂くためにもです、信心がいよいよ本格派というかとかね、いわゆる本格的なね願わんならんから、朝起きて朝参りするという様な事から、それが自分の生き方の中の一部としてですね、生かして頂けるような信心を身に付けて行きたいと思うですね。
   どうぞ。